「人間は動物だったんだ」
子育てしているとこんな感覚を日々感じます。
言葉にすれば当たり前なんですけど、
言葉にするのと経験するのとは全く違うわけでして。
・腹がへれば泣く
・眠ければ大声をあげる
・遊んでほしければ微笑む
動物のひとつである人間もまた
他の動物とおなじように「食べて生きている」
このことを感じていれば、ただ「ここに生きている」ことに
至福を感じることができるのかもしれません。
ただ、日常生活でつねにこんな気持ちになれることは稀でして。
サファリにでもすぐに飛んでいければ、味わえる。でもすぐに行けるわけがない。
そんな中ある一冊を読みふけりました。
時折よみかえし「生きるために食べている」ことを思い出し、ご機嫌に生きていこうと感じました。
「世界を歩いて考えよう」ちきりん著
70ページ
人生観が変わる場所
ケニアでSafariを経験し、ちきりんが1番価値があったと思うのは、「生きるために食べる」という生き物の人生におけるシンプルかつ重要な原則を再認識できたことになります。
そこには「かわいそう」も「生活苦」もありません。生きるためには食物を射止めなければならないし、狙われたほうは食べられないよう必死で逃げねばなりません。食べるために生き、食べられてしまわないように生きるのです。
私は何日もサファリカーで草原を走るうちに「これが人生の基本だよね」と思いました。楽しいとか楽しくないとか、有意義な人生だとか感じられないとか、社会に貢献できているとかいないとか、そんなことはどうでもいいのです。その前に私たちは、まず「食べ」そして「生きる」のです。
その意味で、サファリに行く人がぜひ見てみたいと思うのが狩りの瞬間です。残念ながら私はその親に遭遇できなかったのですが、狩りあと仕留められたキリンの子供がライオンの家族に食べられているのを見ることができました。
キリンの子供はすでに絶命し、草原に横たわっていました。草の隙間から、見慣れたキリンの模様が見えています。それを父親ライオン、母親ライオン、そして子供ライオンが次々と食べていきます。鋭い歯で引きちぎるようにキリンの皮と肉を引っ張り、黙々と食べるのです。それはあまりにも厳粛な行為に思え、目が離せなくなってしまいました。
私たち観光客は一言も発することなく、最初はただ黙々とシャッターを押し、最後にはカメラさえおろしてその様子をじっと眺めるだけになりました。
「自分が生きるために、他の動物を食べる」
と言う行為のあまりの厳しさに声が出なかったのです。
「かわいそう」とか「弱者を助けてあげよう」
と言う概念自体が、ここにはありません。それが自然界におけるシンプルなルールなのです。
ライオンがきりんを食べるのに集中している間、遠巻きに待っているハイエナたちの数が気が付くたびに増えていきます。血の匂いが彼らを呼ぶのでしょう。彼らもまた、生きるため食べていかねばなりません。それにも大きな鳥たちが集まってきます。ハイエナの食べ残すものを狙っているのです。
その時、ガイドに方が叩かれて振り向くと、ジープの遥か後方に大きなキリンが立っているの見えました。
「あれが母きりんだ」
とガイドがいいました。逃げ遅れた自分の子供が食べられてるの、母親キリンが遠くから見守ってるんです。ちきりんだけでなく、そこにいたすべてのサファリ客が絶句した表情で母親きりんを見つめました。
「今日生きるために生きています」
「何のために生きてるのか?」と問われたら私はそう答えるでしょう。
「人生の意義は何か」
「私は何者なのか?」
先進国ではそういった答えのない問いが哲学として重々しく発せられます。けれどああいう場所にいると、そーゆー思索自体が無意味です。私が今日生きてる理由は明日も生きるため以外の何者でもありません。それが生き物の人生なのです。
シンプルに生きていきたい。難しい事を考えるのやめて悩まずシンプルに生きよう
サファリを経験して以来、私は迷いなくそう思えるようになりました
今回は以上です。この記事もよろしければ。